抗うと荷物が増える

何者かに成ろうとしている時点で、制限を感じる。

何者かに成るとは、限定された枠の中に自分を嵌め込むということだ。

何者かに成ろうと、能動的に活動しなかった場合においても、それでもやはり今の自分とは、取りも直さず何者かに成った「結果」なのだと感じる。

それは今の肩書や立場というものを列挙した「結果」でしかないが、大仰に自己同一性などと言ったところで、自分を証明するものなどその程度でしかない。

その程度でしかないが、列挙した纏めが己と他を区別する証明書となり、それをぶら下げて世界の中の一片を担っているという訳だ。

良い悪い・好き嫌いを抜きにして、取り敢えずそういうことになっている。

何者でもないことは在り得ない。もしも何者でもないとするならば、それは即ち無色透明で、存在することを許されていないことになる。

制限の枠の中に自ら収まり、世界というパズルは完成する――――――

甘受という言葉は余り使いたくはない。使いたくはないが、どうも役割というものを真正面から受け止めて、それ(ある意味では運命とも呼べるもの)を投げ捨てたくなるような衝動に駆られても、どこかの時点で完全に受け入れなくてはならないのだと感じている。

無限でありたいとは、やはり人間のエゴ。

突拍子もない可能性を信じたいのも、エゴ。

いや人間は無限だろうと言われても、そういう貴方も枠の中から物を言っているだけでしょう?と思わざるを得ない。

枠の外に出ようとするから、不自由を感じて窮屈になるんだ。

抗うとは今の自分を拒否して、新しい何かに成ろうとすること。

抗いたくなる気持ちは解るけれど、抗って本当に変わるんだろうか?

何一つ変えられず、傷を負って苦しむだけではないのか?

寧ろ抗うと、余計な荷物が増えるような気がするんだ。

悔恨の念を抱かず生きていくことは殆ど不可能ではあるが、それらの想いを受け入れていくということが、結果的に荷物を降ろしていくことに繋がるのではないか。

あの日あの時の言動を、今さら云々しても何も始まらんでしょう。

私はもう僅かな量でも、荷物を減らしていきたい。

時間は掛かっても、身軽になりたい。

重荷を背負うことなく、軽々と生きていきたい。