張り切って、割り切って

自分の好きなものを否定されることは、自分自身を否定されるに等しい。

許せない思いが湧き上るのは致し方ないし、抑えようもない。

考え方が噛み合わない時、どうしても「お前に何が解る?」と思ってしまう。

ということは自分も相手から、「お前に何が解る?」と思われているに相違ない。

各々で感じ方が違うのだから、それを下地にして導き出される考えが同じである訳がないのは、自明というもの。

思考そのものは無機的で、感性の入り込む余地はない・・・とするなら、やはり感情が厄介なようである。

何かを感じるのが出発点で、何かを感じるのも終着点。

思考はその中間にあるもの。

フィーリングとフィーリングを、ロジックが繋いでいる。

終わり良ければ全て良しという言葉がある。まさに最後が感情で締め括られることを、端的に表している。

・・・ああ、そうか。

図らずも自分で書いた文章の中で、大きなヒントを得られたかも知れない。

今までの人生において、私は散々揉めて来た訳だが。

この先いかに争い事を回避していけばいいのか、何となく閃きつつある。

というか、だいぶ前から何度も言っていることだ。

「常識」や「正義」に拘らないこと。

たった1つの道筋を、脇目も振らずに走り抜けられる訳がないのだ。

世渡り上手なんていうと、何だか悪口のようにも聞こえるが。

そういう要領の良さを身に付けることは、当然のスキルのようにも思える。

私は自分の愚直さや不器用さを美化して、何も間違っていないのに世の中から爪弾きに遭っている憐れな人間なのだと思い込み、社会を敵に仕立て上げることで自分を正当化し、辛うじて生き長らえて来たに過ぎないんだ。

捻じ曲がった闇を抱えながら死を待つには、私は些か若すぎる。

折れない信念の旗に陶酔するのは、もう止そう。

これ以上それに拘るのは、新たに傷を負い、元ある傷を深くするデメリットでしかあらず、何一つ益となるものを生まない。

一言で言えば、割り切れってことだ。

割り切れ割り切れ、円周率でさえ割り切ったことにしとけ。

終わり良ければ全て良し。

笑って大団円を迎えることも出来る。

私が全く別の人間に成ってしまうほど、色んなことを割り切れるのなら。