恐怖の正体

怖れというものは時に、気が狂うほどに心を締め付けるものだ。

物理的に首を絞められているのと、ほとんど大差ない苦しみを生む。

この怖れといかに付き合っていくべきか、考えてみよう。

恐怖の正体を闇の中から引きずり出して、対峙してみるのはどうだろうか。

恐怖が増大される所以は、いつ来るか解らない不意打ちにある。

ホラー映画や、お化け屋敷と同じ理屈。

そしてまた闇という不確定さの中にあると、一体どれだけのものか全く見当が付かず恐怖心を煽り、人間の想像がそれに輪をかけて肥大化させてしまう。

兎に角そいつを闇の中から引きずり出して、光に晒してしまう。

すると、今まで不確定だったそれが確定的なものと成り、明快に視認できる。

実物と直に対峙することによって、過不足のない100%を知れた訳だ。

暗中の不確定さとは、妖しげな幻術にかかっていたようなもので、それがひとたび測定可能な白日の対象物となれば、どうということはない。

お化けの時間は、もう終わりだ。

白昼の中でじっくりと腰を据えて、自分を脅かしていた存在と対峙する。

最終的に、それに対する負の感情が消えるまで慣らしてしまえば、道端の石ころのように、ただそこに在るものと同じ扱いになる。

好き好んで石ころがあって欲しいと思っている訳じゃない。

けれど、そこに存在していることを否定もしない。

「ああ、そうか」ってなもんだ。

もはや恐怖というレッテルは剥がされ、世の中に存在する自分にとってどうでもいい“その他大勢”の1つにカテゴライズされる。

深淵と対峙する時は相手の土俵で戦わず、こっちの土俵まで引きずり出せばいいのだと学べば、知らず知らず闇の底に突き落とされることもない。

見えないものを無理に見ようとすると、心が囚われる。

見えないものを見えるようにしたら、全身全霊で恐怖の正体を見極めろ。