13年目の自由

しかしまぁ、ブログを13年もやってきて、最近ようやく自由に文章が書けるようになってきたなって思う。なかなかに長い道のりだった。自由に文章を書くというのは、文章力それ自体とはなんの関係もないからな。文章力なんて無関係だからこそ、ブログは誰にでも書ける。書こうとし続ければ13年だってやれんだよ、こうやって。

自由になり始めた起点は、一人称の縛りをやめたこと。これは地味に大きい。13年前、ブログを始めるにあたって考えたのは、一人称をどうするかということだった。「俺」だと強い、「僕」だと弱い、中立的で中性的な「私」にしようと決めた。これでずっと特殊なイレギュラーケースを除いてやってきた。12年以上。でもやめた。はてなダイアリーから、はてなブログに引っ越した時にやめた。

自分が明確に男であるという表明のため、俺を多用することが増えた。それと同時に、僕でも私でも良くなった。もはや一人称を縛る必要はないと思った。だって、その時の気分やノリで自分というものは変わって当然だから。自分は何者でもない。確かに自分は男だけど、女性性もかなり強い方であるし、今のフリースタイルでいいと思う。

自分の書くことにタブーはない。不可侵領域、サンクチュアリにはない。何でも書く。書きたいと思ったら、どんなことだって書いてやる。面倒な奴に絡まれたくないからブログのコメント欄は閉じてるけど、文句があるならツイッターでダイレクトメールを送ってこい。いつでも相手になってやる。それくらい手間暇かけてでも文句を言いたい奴しか相手にする気はない。バカらしい。安易に褒められたくもない。ご自分でツイッターのアカウントを探して下さいな。来るもの拒まず。ちゃんとステップを踏んだ上で私に物申すのであれば、例えそれがどんな思想に基づいた言説であっても、決して無下にはしません。ありがたく拝受します。どうも。

もっと自由にと思う必要はない。自由でなければならないは不自由だ。書きたいことを書きたい時に書きたいように書く。わざわざ自分は自由なんだなどと思う必要もない。

誰が読もうが、誰も読んでなかろうが、関係ない。

生まれながらに活字中毒。そういう性分。

心底、言葉に取り憑かれた男。

一生、書いたり読んだりして暮らす。それでいい。