自分さえも他人

何も欲しくない時に、何かを欲しがれというのは苦痛な話だ。

けれども、欲しいという純粋な欲求が最初の一歩なのだから。

何も欲しがらないということは、同じ場所で足踏みを続けるしかない。

自我が肥大の一途だった時は、色々と欲しいものが在った訳だが。

欲しがれば欲しがる程に、悩みの種でしかない自我は厄介事を抱え込む。

私はもう面倒だから、自分というものから手を引くべきだと考えた。

自我を放棄して、あたかも自分が世界の背景の一部で在るかのように思い始めたなら、もはやパーソナルに大した意味は無い。

自分さえも他人という視点。

感情なんてもんは、自動リアクションマシーンに過ぎないからな。

物事は勝手に湧き上がって来る。

それを一々、制御して思うままにしようだなんて、滑稽の極み。

だから、そうであってもいいし、そうでなくてもいい。

コイントスをして表でも裏でも、サイを振って1でも6でも、何が出てもいい。

両手をあげて、成り行きを傍観。

しかしそう思うと、欲求を失って足踏みでも構わないのか。

生まれ落ちた場所で一生を終える樹木は、それに文句を言うでもない。