言葉とは精神の灯台である

オリジナリティについて考えても意味はない。

なぜなら、全てはすでにやり尽くされており、完全に新しいものを生み出すのは不可能だから。

新しい何かも、過去の何かがベースになっているし、その過去のものも更に過去のものがベースになっている訳で、それはどこまでも遡れる。過去の何かに僅かばかりの影響も受けずに生み出されたものがあるとしたら、それは奇跡に近い。というか、奇跡そのもの。子が親の影響を受けずに育つようなものだ。そんなことは不可能でしょう。

だからもう、あんまり新しいものを作るぞ!なんて、躍起にならない方がいいんだと思う。寧ろ、自分には新しいものなんて作れる訳がないんだと開き直るくらいでちょうどいいんじゃないか。

文章もそう。やり尽くされて、やり尽くされて、ぺんぺん草一本も生える余地がない訳です。

使い古された言葉ですけどっていう言葉自体が使い古されている。

手垢にまみれた言葉ですけどっていう言葉自体が手垢にまみれている。

もうね、本当に新しい文章を作るんだったら、独自の言語を捻り出すしかないからね。新しい文字、新しい単語、この世のものとは思えないものを生み出すしかない。まぁ、それも既存の言語体系がベースになる訳だから、そんなこと不可能なんだけどね。

私たちは、既存の概念から脱却することは出来ないのです。既存の概念を捨てるということは、今まの歴史を否定するということだ。革命ですね。いや、革命なんていう生やさしいもんじゃない。高度な文明を持った宇宙人に制圧されて、世界の在り方がガラッと変わるようなものだ。

繰り返すが、何かは何かの影響を受けている。古代の言語を解読する時も、既存の言語との類似性から読み解いていくもの。いずれかの時代、いずれかの地域、どこかの言葉との親和性が必ずある。廃れ切った言葉や、ガラパゴス的に存在した固有言語もあるにはあるだろうが、役割を終えた言語が淘汰されていくのもまた必定。

人間が、繋がりの中で生きてきた証拠だ。

共通の言語を持つ限り、人は孤独ではない。

だから、オリジナリティなどなくても良いのだ。

社会の中で、自分だけが異邦人になっても仕方ない。

言葉とは精神の灯台であり、暗闇を照らす導となる。