最後の遊び

病気と向き合いながら、可能な限り健康を心がけ、限界まで肉体を鍛え抜くのが、私の人生にとって最後の遊びになるだろう。

正直、小説もマンガも音楽もゲームも大体は飽きてしまって(とはいえ、今さらハンタにハマっていたりするw)なおかつ、精神の不安定さに起因する暴飲暴食にもうんざりしていたので、病気になったことは寧ろいいことなのかも知れない。

もともと、ストイックに生きることは嫌いではないので、食事の制限や肉体の鍛錬というものは、さほど苦痛ではない。

ただ、生来の病弱さや崩壊寸前の精神などを理由として、何一つ運動もせず、異常なまでの食欲に委ねるままであったため、どんどん自堕落な生活を送るばかりだったので、今回の病気発症は、自分の人生を見つめ直す、いい機会であったと言い切ってもいい。

病気になって気落ちするどころか、寧ろ明るくなり、前向きになり、このゴミみたいな人生を力強く生きようと決意を固めることまで出来た。

私はやるからな。

もう間食なんて、一生しなくてもいい。

将来的には、キン肉マンになる。

肉体を鍛え上げ、磨き抜き、逞しい体を手に入れるのだ。

正直、精神の成熟度はこの辺で頭打ちだろうと察しているので、後は肉体を極めるしかないんだろうと思っている。

落ちるところまで落ちたので、強くてニューゲームならぬ、弱くてニューゲームの始まりだ。

このゲームの一つの到達点が、悟り。

悟りというのは静の悟りと動の悟りがあると思っていて、座禅などをして静寂の中で辿り着くケースと、武道など肉体の鍛錬により到達する動の悟りがあるのだと勝手に確信している。

武道の達人が最終的にスピリチュアルなことを言い出すのは、そういうことだろう。別に悟りたくて彼らは修行していた訳ではないだろうが、結局やっていることは、アプローチの仕方が違うだけで、本質は同じなのだ。

目指すべきメンタリティは、無心であること。どこにも心を留めず、何にも縛られない。過去にも未来にも囚われず、“今”という瞬間にだけ生きる。いつまでも今ここ、ど真ん中の繰り返し。

思考より先に体が動く。考えが浮かぶのは後付けに過ぎず、体が最適解を選択する。弛まぬ鍛錬により、体が自動で反応するのだ。無我であり、無心であり、もはや自分が消えている。ただ体を鍛えるのではなく、そういう融通無碍な領域にまで自身を持っていきたいと思っている。それがつまり、悟り。

座って悟るより、動きながら悟る方が私には合っていそうな気がする。

私はかつて空手をやっていたというのもあって、今でも武道が好きであり、今後はあくまで独学だが、武道、体術、格闘技なども身に付けていきたいと考えている。

こんな時代だ。自分の身くらい、自分で守れなくてどうする。

大切な人を守るのにだって、確かな力が要るのだぞ。

もう本は一生分先に読んだから、新しい知識はそんなに必要ない。思想も哲学も十分だ。後はただ、肉体の修行が続いていくだけ。

まぁ、修行とは言っても、結局この世は遊びですから。

道を究める、求道ということも、単なる遊びに過ぎないのです。

どうせ遊ぶなら、あくまでも真剣に、トコトンやった方が楽しいだろうってことさ。

精々、最後の遊びを心ゆくまで楽しむとしようか。