表現の話4

ある日急に、ブログがプライベートモードになって見られなくなると。

自意識過剰なんだよバーカと思うと同時に、一抹の淋しさもある。

選ばれた人間だけはそのブログの続きを読め、選ばれなかった人間は半永久的にそのブログを読むことが許されなくなる訳だから。

誰もがブログを始めた当初は、少しでも多くの人に閲覧して欲しいと思うのだろうが、その数が増え続けると些か厄介な問題も抱え込んでしまうのだろう。

面倒な輩にコメント欄で粘着されたりだとか、色々とあるんだろう。

幸か不幸かこのブログは微々たるアクセス数で推移し続けているため、私は安心して毎日のブログを書いていられる。

何人かでも毎日チェックして貰えているのなら嬉しいが、もし誰も読んでいなかったとしても私は続けるだろう。というか、そういう気ままなスタンスだからこそ、1000日以上も連続で更新を続けられている訳だから。

読んでいる誰かを想定し、その想定が明確であれば明確であるほど、突き抜けるような自由さでは書けなくなっていくのだと思う。

誰だって、矮小でつまらない人間だと思われたくないからな。

自分のことを文章に書くということは、少なからず弱さを露呈するということであり、醜さを晒すということであり、浅はかさを垣間見られるということだから。

しかしまぁ、表現するというのはそういうことなんだ。

いくら自分を大きく見せようとしても、等身大でしか有り得ない。

なんぼ取り繕っても、ボロが出て、メッキが剥がれ落ちる。

だから等身大の自分を見せることに抵抗のある人間は、そもそも表現の世界には向いていないし、その資質がない。

自分がいかに愚かであるかを、公衆の面前に晒す覚悟がなければ。

何かまぁ、色々と書いたけど、私は表現をする人が好きだし、だからこそある日突然その人の表現に触れられなくなるのが、どこか虚しいのだ。

失ってから気付く、「私はその表現を堪らなく必要としていたのだ」と。

一度でも表現を晒したら、最後まで戦えと思ってしまうのだが、やはりこれは私の我儘なのだろうし、それを強要する権利などない。

何より縛られず自由なのが、アマチュアの特権だしな。

好きな時に表現して、好きな時に去っていける。

勝手気ままな根無し草だ。