語りえぬことについての追想

その日が来たら書こうと思っていたのだが、すっかり忘れていた。

このブログが先月で10周年という、私以外には酷くどうでもいい話である。

10年といえば、一昔と言われる年月。私も年を取った。

当時、まだ18。人生には一筋の光もなかった。

いや、10年たった今、闇はその深みを増すばかりである。

多くの傷を負い、苦汁を舐め、辛酸の雨に打たれてきた。

過酷な現実は、塵一つの変化も見せぬ。

けれども私は、10年前ほど絶望していない。

大人になるとは結局のところ、色々なことに諦めがつくということなのだ。

諦めるの語源が明らかになるであるように、年を取れば取るほど、自分という人間の身の程が明らかになり、多くを望まなくなっていく。

若さとは、何と愚かなことなのか。

自分ほどの人間であれば、当然のように一角の人物になれると信じて疑わない。

全く、今となってみれば呆れて物も言えない。

けれどもそれが若さというものなのだ。

勇気も信念も失い、老兵は一人朽ち果てるのみ。

長生きは出来ないと思う。

けれども、死ぬまではここで、ボソボソと支離滅裂なことを書いていく。

絶望ヶ淵108番街、ここを終の棲家と決めたからには。