あの日の窓から、今を眺める

小学校の同窓会が、終わりました。

午後3時に始まり、最終的に3次会の最後の最後まで付き合わされ、散会が午前1時過ぎ・・・病気の体で無理をしたので、その後2日間寝込みました・・・ようやく体調がマシになってきたので、今これを書いている。

まぁ、別に参加する気もなかったのだけど、校舎の建て替え間近で、校舎に入れる最後の機会だったこともあり、参加を決意。校内を見て回ることが出来たし、そんなに悪い会ではなかったと思う。たぶん。

小学校時代というのは、私の人生の中で一番マシな時期であり、病気の今を考えるとそれ以上に良かったと思えるような人生になることは有り得ず、実質人生の中で最も良かったのが、小学校時代ということになる。

とはいえ、当時に仲が良かった連中の殆どとは既に縁が切れ、今回も普通にスルーしてくるような奴らである。私も幹事たちの手伝いが出来ればと、意を決して参加を促す活動をしてみたが、完全に無駄であった。1人は来てくれたが、私の言動が最後の一押しになったとも思えず、やはり無駄であった。

つまり、今回の参加者たちは同級生であるが、胸を張って「こいつは俺の友達!」と言えるような連中でもなく、ただ同じ時を過ごした人たちという枠を出ない。知り合い以上友達未満な人ばかりだ。

でもまぁ、今回はそれなりに楽しかった。なぜかはよく解らない。

今は毎日家族としか話をしない生活だし、同級生とはいえ普段会わない連中の群れに飛び込んで、即時に適応できるはずも、楽しいはずもない。だけど今回は、そこそこ楽しめた。それは恐らく、私が極度の人間嫌いであると同時に、人間にしか興味がない性分だからだろう。

人間ほど面白い存在はない。どんなに鬱になっても、凄惨な目に遭っても、無慈悲に裏切られても、それでもなお人間にしか興味がない。これに関してだけは、神、運命、宿命、必然、偶然、何に感謝していいのかは解らないが、確かに感謝している。こういう資質が私になければ、とうの昔に自殺しているだろう。

だから今回も、テンションが高すぎたり低すぎたり上手くコントロールは出来なかったけれど、それなりに笑いも取り、相手の話を聞き、何だかんだその場には馴染んでいた。たぶん。

私のことを、「お前は、名脇役」と評してくれた奴もいた。暗にお前は主役の器ではないと言っているとも取れるが、悪い気はなしない。小学校の同級生という劇の中に、私の存在意義が確かにあるということに等しいからだ。

普通、精神が崩壊して長年引き籠もっているような人間に、そんな芸当は出来ない。やはり私には、人間と関わる才能、コミュニケーションに纏わる才能しかないのかも知れない。

人と会っていないことの反動から、YouTubeニコニコ動画で色んな人の話を何時間も聞き、まとめブログではコメント欄の最後まで、食い入るように読み続けている。こんな病的なまでに人間たちに執着する人は、そうそう居ないだろう。

私は単一の誰かに固執しているのではない。「人間たち」という、漠然として取り留めもなく、それは殆ど有象無象ともいえる取るに足らない存在の群れに対して、深い愛情を抱いている。

私は考えることをやめた。期待することをやめた。

あの日もただ、私にとっては何の変哲もない土曜日であった。

その日を摘むとは、こういうことだったのか。

今日という日にだけ咲く花を、私はただ摘むだけ。

私のためだけに咲いた花を、ただ愛でるだけ。

それは特別なことではない。けれども、普通なことでもない。

人生は一度きり。後戻りは出来ない。何もかも一期一会。帰れない片道切符。

ただ、今を楽しむ。

只今を楽しむ者だけが、“今”という掛け替えのない瞬間に帰って来られる。だから言うのだ、「ただいま」と。

人生に無駄はない。価値というのは初めから存在しないからだ。

今という瞬間にしか生きられない。

過去は霧散し、未来は霧の中。

今だけ見ればいい。今だけ知ればいい。今だけ楽しければいい。

私はこんなに幸せだったのか。今、解った。