誰も彼もが自分語り、その全てが物語り

世の中には、何を言っているのか解らないから面白いということもある。

私はここ何年もプロが書いた文章より、どこぞの馬の骨とも知れぬ人らのブログばかりを好んで読んでいるが、だいたい意味が解らない。まぁ、お前のブログも意味不明なんだよと言われればぐうの音も出ないが、私は別に素人の文章を馬鹿にしている訳ではないのだ。

逆に言えば、解りやすいブログなんて面白くもなんともない。話はストレートで簡潔、要領を得ているから読みやすいし理解しやすい。でも、それだけだ。本当にただ、それだけだ。後には何も残らない。情報は右から左に流れていき、戻ってくる気配はない。

別に、無駄に解りにくくしたから面白くなる訳でも、高尚になる訳でもない。そんなことは当たり前の話だ。

肝要な点は、その解りにくさが筆者にとって必然性があるのか否かということである。

あくまでもそこに必然性があるから、そういう言葉選びになり、複雑に文章が構成されていくのだ。そこに確かな意味があるのなら、私はどこまでもその謎を追っていこう。

個々人の思想とは人生経験によって千差万別なので、結論が同じでも過程が異なる場合もあるし、過程が同じでも違う結論に至る場合もある。

人によって譲れない価値観、揺るがない信念、自分だけのルールなど、他者と相容れない思想を持っていることも考えられ、それを深く自己認識できているのか、あくまでも無意識なのかによっても、文章表現というものは大きく異なってくる。

世の中ではそれを、個性と呼ぶ。私は個性的な人間が大好きだ。

最低限の文章力と人間的な魅力さえ備わっていれば、私はそういう解りにくい文章が大好きなのだ。もっともっと読みたくなる。もっともっと知りたくなる。

この辺は、人の話を聞くのが病的に好きなことと関係があるかも知れない。人が何かを話す時、人が何かを書く時、それはもう物語なのだ。事実は小説よりも奇なりとある通り、現実はいつでも人が想像できる範疇を飛び越えていき、驚きと衝撃を与える。それが良いことであっても、悪いことであっても。本当にあったことは、善悪などという物差しで裁定を下すことは出来ない。興味深い物語は、いつでも人を惹きつける。

強く惹きつけられる物語がある限り、私はまだこの世界を楽しめると思う。こんなに面白い遊びが他にあるか。物語に寄り添うことで、ずっと遊んでいられるんだ。

饒舌に自分語りする者を責めてはいけない。その人もまた他者に語りかけることで、自分自身の物語と向き合っているのだ。