苦行林を出よ

ほんと不思議なんだよな。ネットで検索するたびにツインレイブログが増え続けてない?最近になって始めたブログじゃなくて、前々からあるのが急にヒットしたりする。

なんつーか、求めよさらば与えられんってこういうことなん?って気もするけど、私が求めてるのは情報じゃなくて真実だけなんですけどね。本当のことだけを知って、本物たちだけと出会って、成すべきことを成す。それだけなんだけどね、自分が願っていることって。

まぁ、単に個人のツインレイブログは物語として面白いから読んでるってのもあるけどね。事実は小説よりも奇なりだ。時に現実はフィクションすらも超えていく。摩訶不思議・奇想天外・奇妙奇天烈。でも自分の人生を客観的に見つめると、ただひたすら普通に生きたかったなぁって思う。普通が一番。苦労は買ってでもしろとか戯言を抜かすな。

最近、自分を取り巻いている世界の在りようがよく解らなくなる。自分の認識しているものだけが「世界」なのか?過去・現在・未来というタイムラインに沿って時が流れているってのもそれさえ不確かというか。人の言っていることが前と違ってたり、記憶が違ったり、ツインレイ云々も最近急激に情報が氾濫しているように思える。自己の認識によってパラレルシフトを繰り返しているような気もする。シフトを自分で決定できないなら、結局は運命論と同じ訳だが。

スピリチュアルに関心を持ち始めてから15年くらいは経っているんだが、結局は原始仏教、釈迦の思想が一番わかるというか、やっぱり最後はここに戻ってくる感覚というか。苦しみは消えへんで、でもそれでええねん。解らないことばっかりや、でもそれでええねん。身体を痛めつけ、精神を追い込み、自ら苦しみを求めても、そこには何もない。僕らは苦行林を出るべきなんです。今、すぐにでも。

バガボンドという宮本武蔵を主人公にしたマンガがあるんだけど、これは本当に何度も何度も読んでる。もはや仏典や聖書みたいなもんだ。何度読んでも新しい気づきがある。生きること、死ぬこと、なぜ産まれてきたのか、なぜ人と出会うのか、人生とは長く険しく孤独な旅でしかないというのに・・・作品の中の主人公も、それを読む私も、何度も何度も自分自身に問いかける。

仏教の思想も色濃く作品に反映されている。ぶっちゃけ最初の方はあんまりおもんないですが9巻の柳生編から尻上がりに面白くなっていって、14巻の佐々木小次郎編からは普通に名作、21巻の吉岡編からはマジで神。ここからは何度も何度も読んでる。一乗寺下り松の決闘で「ぬたあん」って表現が出てくるが、あれはもう悟りそのまんまです。後にも先にも、どこにも何にも寄りかからない、限りなく今ここ・ど真ん中の繰り返し。あんな風に自分も生きることが出来ればっていつも思ってる。だんだんとスピリチュアル思想が強くなっていくので合わない人はとことん合わないと思うけど、私は死にたくなるたびに何度も読み返してる。

肥大した我執の囚われを武蔵は殺し合いの螺旋と呼び、そこから降りることを決意する。釈迦が苦行林を脱したように、自分自身が生み出した苦しみを自分の中で確実に終わらせる。そうすることで人は初めて自由になる。というか、最初から自由であったのだと思い出す。ただ、そのままで在ればよかったのだと。悟りとは何よりもシンプルであるが故に、他のどんな複雑なことよりも難しく感じてしまう。

考えてみれば、人間関係は最悪でも、色んな作品にはずっと助けられてきた。

私も文章で誰かの一助になることが出来れば・・・とは思っている。