謙虚にならなければいけない。
自分がキレているのと同じように、相手もキレている。
俺は相手が嫌がるようなことを平気で言うような人間ではないけど、それでもキレさせている。
とある元友人は、家族が大好きな人間だった。そのため、兄弟を呼び捨てにされることにキレていた。
俺の弟は昔から呼び捨てで周囲の人間に呼ばれていたし、俺はそれについて特になんとも思わなかった。
考え方が違うんですね。
なんだったら俺は弟を知っているだけでも仲が深い証だと思っていたし、会話の中で自然と弟の名前が出てくることで嫌な気分になることは一度もなかった。
ところが全く違う取り方をする人間がいて、知らず知らずのうちにキレさせていた。
でも家族愛が深いからといって善良な人間でもなく、俺の容姿や鬱をイジるような普通に性格の悪い奴だった。
自分がキレているように、相手もキレている。
キレているのは自分だけではない。
謙虚に、でも堂々と話す。
いつキレてもいい。
いつキレられてもいい。
それは仕方がない。
だって相手がどんなことでキレるか知らないから。
相手も俺がどんなことでキレるか知らないでしょう。
俺は社会人であれば、どんなに年下でも、さん呼び敬語で話すようにしている。
より謙虚に。
より無難に。
それでも地雷を踏み抜くのは仕方がない。
俺だって悪気があってそうした訳ではない。
話が飛ぶように感じるかも知れないけど。
優しさって、優しくしてくれた本人に返さなくてもいいんですよ。
この話は時間がなくて若菜には出来なかった。
若菜は上司や先輩にたくさんフォローしてもらって申し訳ないと言っていた。
でも俺はそういう恩返しは、いつか出来るであろう後輩に優しくしてあげればいいと思う。
恩は本人に直接返さなくてもいい。
他の誰かに優しくしてあげればいい。
うーん、なぜかキレる話と優しさの話がセットで思い浮かんだので書いています。
誰かにキレられたから、べつの誰かにキレてもいい。
誰かに優しくされたから、べつの誰かに優しくしてもいい。
世の中は一対一で成り立っていない。
誰かについての怒りは、べつの誰かに向かうかも知れない。
それは仕方ない。
誰かについての優しさは、べつの誰かに向かうかも知れない。
それは美しい。
人間って、単純で、複雑で、単純なんですよ。
謙虚に堂々と生きる。