ライ麦畑のキャッチャー

J・D・サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読了。

日本だと『ライ麦畑でつかまえて』という邦題が有名だろうな。

正直なところ、100ページ過ぎで挫折しかけた。

というのも、主人公がダラダラと愚痴るだけじゃねーか!感がずっと抜けなかったのだ。

話の主題がどこにあるのか皆目見当つかないまま、ページが過ぎていく焦燥。

若干イライラしながら読み続けたが、限界に達した為ばらく放置。

が、ネットでのネタバレが酷いので一気に読んだ。

不思議と目にしたり耳にしたりすることってのは、今現在に対するヒントであるような気がしないでもない。

終盤はいい。妹が出てきた辺りからは良かった。

私はあまり作品の感想なんかを読んだりしたくないんだが、今回は全体的に微妙だったので、ネットで色々な書評を読んでみた。

そしたらね、この作品の評価がぐんぐんと上がる訳。

全然自分気づけてないじゃん、読みこめて無いじゃんって思い知った。伏線や仕掛けが一杯あったんだよ実は。

そういうこともあるんだよな。人の意見聞いてから評価が変わること。一人の人間に出来ることってのは限界があるからね。

私にはこう見えたけど、君にはどう見えてる?そういう差異って、とても大切だと思う。

“誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方へ走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ”

多分私は、この文章を読む為にこの小説を読んだ。

キャッチャーみたいな存在ってのは理想論でエゴだし、作中で主人公もそれに気づくけど、でもどこか胸に来る。

子供はいつか大人になるけど、大人はもう子供にはなれない。それを悲しいとは思いたくないよ。

何だかこの小説、私の中で特別な作品になりそうだ。