あれは、先月の終わりくらいだったかな。
在り得ないタイミングで、在り得ないことが起こり。
「こういう事があるから、運命論者になりそうになるんだよ」って。
思わず、横にいた友人に口走った。
その友人は、哲学や形而上学や宗教についても語れる稀有な相手でもあるので、その手の話も散々した後の出来事だったしな。
でも別にね、共時性に大した意味は無いんじゃないかって、最近は思う。
因果律も、幻想に過ぎないのではないかって、思い始めてる。
人間って、全ての現象に明確な定義付けをしないと、安心できないっていうかね。
「こうしたから→こうなる」という、確固たるルールを信じたがる訳だが・・・。
もしかして今まで信じていたものは、実像とはかけ離れているのではないか。
私はずっと、言葉に囚われ過ぎていたのではないか。
だからそう・・・本当に最近になって、自分は自由だと心底思えた。
私がやたらと人間に自由意思が無いと喚き始めたのも、気付きのステップ。
要は・・・好きとか、嫌いとか、こうしたいとか、ああしたいとか、勝手に湧き上がって来るだろうがよって。
それは別に、“私”が決めた訳じゃないけど、その湧き上がって来たものに素直に応じれば、物事はいい方向へ進んでいくしかないんだって。
だから別に何をしてもいいし、何を感じてもいい。
湧き上がるものに従ってもいいし、抗ってもいい。
それは“自由”だ。
バガボンドのセリフで、“それぞれの生きる道は天によって完璧に決められていて、それでいて完全に自由だ”というのがあって。
それを最初に読んだ時は、「はぁ?何という矛盾!!」って思ったけど。
今は、解るような気もする。
どこまで行っても、素直になれ。
どこまで行っても、受け入れろ。
何故かは解らないが、そうなっていく・・・それならそれで、いいだろって。
力を抜いて、楽にすればいい。
そうすれば、すぐ手に入る。
私が何よりも欲していた、安堵感が。
抗うこと無く自然な流れに身を任せ、流れのままに生きていく。