縁が延々と続いて、艶になって宴になって円になって、大団円

私らが通っていた時分から建っている小学校の校舎が建て替えになるようで、その前に校舎において同窓会を開く・・・ということらしい。

最初の一報は関わりを絶った旧友からで、どこそこに出席の場合はメールを送れという話だったが、一ヶ月放置していたら、今度はわざわざ手紙が送られてきた。文面に先生云々と印字してあったから、教師らに宛てた手紙の文章を使い回したのかも知れない。差出人は、過去に年賀状のやり取りはおろか、ケータイの連絡先も知らない同級生。どうも幹事の一人ということらしい。万事がメール・ラインで済んでしまう時代に、何とも殊勝なことである。

けれども出席のメールを送らずにいるんだから、そのまま放っておいてくれればいいのだがな。

小学校時代に仲の良かった面々とは、色々あって全員と縁が切れたし、今さら会いたい奴もいない。

私の人生を振り返った時、唯一そこそこ楽しかったと言える小学校時代ですらこの有様だからな。その後の人生がいかにゴミクズ以下の反吐であったかが解るというもの。

人生とは、縁が全てである。そしてまた、縁とは自分自身によって決められるものではない。万事が勝手に決まる、運次第。

縁と一口に言っても、そこには良縁と悪縁がある。人生は何も、良い縁だけで構成されている訳ではない。私の場合は99%が悪縁と言い切ってもいいだろう。人間関係とは取りも直さず修行であり、ただ辛く過酷なものであった。

今さら同窓会などに顔を出したとして、私は語るべき言葉を持たない。誰かの話を聞くべき耳もない。全てはただ、無為に過ぎていくだけの時間で終わるだろう。これまでの人生がそうであったように、だ。

そもそも私の場合、参加費用を工面するところから始めなくてはいけない。日々、労働に精を出している健常者たちとは訳が違うからな。

全く、人生とはつくづく徒労である。ただ徒に労するばかりで、何の意味もない。

私はこんな誰一人読んでいないブログで、一体何を喚いているのか。

ブログを書く意味も、最近ではよく解らない。

大病を患い、そう遠くない未来に視力を失う可能性すらある。実際問題、すでに視界がぼやけ始めている。元来、目が弱い。耳も悪い。そもそも私の体は殆どが異常を来している箇所ばかりだ。スクラップ寸前のポンコツ同然。

こんな状態に陥ってすら、やりたいことも、見たい景色もない。

最期に海が見たいなんて、ベタなことでも言っておけば普通の人間らしいんだろうか。というか、普通って何だろう。私の人生は最初から最後まで普通ではなかった気がする。

私の人生が今後どうなっていくのか、知る術はない。全ては、縁。

ただ安らかに、眠るように終わりたい。