何よりも好きであるがゆえに、何よりも好きでなくなる

最近ハマっているユーチューブのゲーム実況者が、「自分は昔からニコニコなどで色々な実況動画を見るのが好きだったが、最近はほんの一握りの実況者を除いて、ほとんど嫌いになった」という趣旨の発言をしていて、何となく解るなぁと思った。

私に置き換えて考えてみれば、それは読書に当たるだろう。私は小学生の頃から、たぶん普通の人の10倍は小説を読んだと思うが、年を重ねていい大人になるにつれてどんどん小説が嫌いになっていった。

昔はとにかく乱読だったし、古今東西の有名な作品はだいたい読んだ。今話題の小説と評判の作品があれば迷わず読んだ。昔はそうだった。昔は。

25前後でだいたい人間としての感性は出来上がるし、自分が肯定できるものでなければそれが例えどんなに高名で徳の高いものであったとしても、素直に受け入れていくことは難しい。

ましてやそれが、自分の大好きなものであるなら尚更だ。わずか5%ほどのストライクど真ん中でなければ、生半可な夾雑物として徹底的に弾き飛ばされる。

好きなものであるほど、妥協できない。簡単には納得しない。評価の目はどこまでも厳しくなり、狭き自己の扉を安易に開門することはない。

どうでもいいものは、結局どこまでいってもどうでもいいのだ。味に拘らない私はファストフードで満足するし、流行ファッションなど死ねばいいと思っているからユニクロの服で十二分。

でも小説は違うのだ。超一流でなければならない。そうでないのなら、初めから読む価値などない。時間はあくまでも有限であり、生涯で読める冊数は残酷なまでに限定的だ。

そういえば、件の実況者が「某実況者はお笑い芸人のくせに真面目な実況動画ばかりで面白いことの一つも言わない」とぼやいていたが、その芸人は職業としてコメディアンをやっているだけで、素の個人としてはあまり面白さに拘らない人なのだろう。

私のように面白さに最上の価値を置いている人間にしてみたら、ユーモアとは365日24時間追求すべき事柄であって、使えるネタやフレーズは一つ残らず収集するし、笑いが取れるタイミングがあったのなら一瞬も逃さない。

大好きなこと、最も価値を置いていること、意地でも拘り続けることは、取りも直さず人間の個性そのものだ。個性とは生き様であり、それと同時に死に様(人生の最終結論)でもある。