ほぼという魔力

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの、今日のダーリン。

なんで、ほぼ日刊イトイ新聞なのに「毎日」書くなんですかね。

毎日書くんなら「ほぼ」じゃなくて、日刊イトイ新聞ですよね?

「ほぼ」が取れた途端、魅力が激減した。

糸井重里が「ほぼ」毎日書くエッセイのようなもの、今日のダーリン。これじゃダメなの?

ほぼ日刊と矛盾しない?

ほぼ日手帳って使ったことないし何がいいのか知らんけど、ほぼ日手帳っていうネーミングがいいじゃないですか。

手帳のスケジュールがほぼってなんだよ。

ほぼ毎日こんな感じですってなんだよ。

だがそれがいい

ほぼ日という言葉は略語でありながら、企業理念を示すシンボリックなフレーズになっている。

ここで大元に立ち返る訳ですが、そもそもほぼ日が何からスタートしたのか知らんけど、早い段階でエッセイはあったはず。

糸井重里もこれはホームページの柱になると思っただろう。

ではなぜ柱であるエッセイがほぼ毎日ではなく、毎日なのか。

矛盾していると思いませんか。

今日のダーリンが、ほぼ日刊イトイ新聞と関係ありませんな訳がない。

今日のダーリンは新聞の社説みたいなもんだ。

矛盾していると思うのは俺だけなのかな。

俺はほぼ日刊なのに毎日更新するのがカッコイイと思った。

23年連続更新。

俺など足下にも及びません。

でもさぁ、おかしいものはおかしいじゃない。

俺は頑固だから細かいことが気になるんだよ。

今日のダーリンってネーミングでエッセイを書き始めた時点で、他の人は一切同じテイストのネーミングができない。

メロンパンの気持ちは二番煎じ。

よく解らないネーミングでエッセイは書けない。

俺はもう完全に開き直って、好きなことを書いていいよっていうネーミングにしたけど、これなら誰かと被ってもべつにいいし、今日のダーリンみたいに凝ったネーミングで二番煎じになることもない。

糸井重里には、ほぼ日には、それなりの考え方があると思う。

でも、気になるもんは気になるよねっていう話を一日中していました。