あんたが喋っていればそれでいい

また最近、精神障害者のオッサンがやっているYouTubeチャンネルを見つけた。

年も同じ50くらい。

可愛いメンヘラの女の子がやっているYouTubeチャンネルなんて山ほどあるでしょう。

なぜ俺は50のオッサンがやっている動画なんて見ているのか。

一つには、俺の20年後がそこにあると思うから。

俺もこういう風に年をとっていくのかというリアルな未来予想図。

50のオッサンの動画を34の男が見る。

実に奇妙である。

登録者数は150くらい。

再生数は100くらい。

俺よりよっぽど需要がある。

俺は要約大好き人間でだらだら長く話せないので、どんなに長くても3分が限度だと思う。

就労移行支援で1分喋ってくださいというトレーニングがあったのだが、1分でも十分にキツかった。

20分以上も自分語りができる人たちは、俺にとっては異次元の存在である。

俺はそんなに話せない。

その代わり俺にはブログがある。

何が要約大好き人間で合理的だと思うだろう。

彼らがYouTubeでだらだらと自分語りをしているのと同じように。

俺はブログでだらだらと自分語りをしているのだ。

一日三回、自分語り。

ブログは擬似的な会話でもある。

喋っている動画を見るのも擬似的な会話。

他人との交流が全くないので、俺は書くか見るかするしかないのである。

ゆるキャンの方がオッサンの動画より遥かにうつくしいのに、俺は金を払っているネットフリックスよりオッサンの動画を見るのである。

実に奇妙だ。

凄く太っていて飲み物もこっちがストレスに感じるくらいたくさん飲む。

今何日の何時何分に撮っていますの時計のくだりもいらないし、何を飲んでいるかの紹介もいらない。

オッサンの動画を見ること自体が時間の無駄なのに俺は見るのである。

つまり、娯楽である。

娯楽はすべて無駄。

だがそれがいい

趣味なんてすべてが無駄なんだ。

キャンプだってそうでしょう。

わざわざ不自由な思いをするために行く。

寒い冬に外で焚き火をして、コーヒーを飲んで読書をするために行く。

オッサンも同じなんですよ。

何を言っているのか全然解らないし、おもしろくもない。

でも、あんたが喋っていればそれでいい。

俺もそう思われたい。

あんたが書いていればそれでいい。

そう思ってほしい。